心ここにあらずの23年間、フリーターの最悪な1日

Twitterはしばらくやめましたがこっちは少しずつ更新していこうと思います。芦野は現在23歳で大学を中退してフリーターをしています。そんな人間のしょうもない23年間の人生と最近の最悪な一日について紹介します。

 

嫌なことがありました。2、3年前くらいの大学生の時です。一つ大きな出来事があったわけでなく色々積み重なって最悪を更新しました。全部が嫌になり部屋に引きこもっていました。色々嫌だった事だとか、言われたことなどを思い出して彼らとわたしの人生に呪いをかけていました。

その時期に一度自殺未遂をしました。写真データと連絡先、当時のTwitterアカウントなどSNS全般を消して、スマホを捨て、鞄を捨てて、それで死のうとしましたが死に切れませんでした。死ぬ度胸もそこまでなくて、生き残りそうな安易な方法を取りました。

 

 

もう当時のことはあまり記憶にありませんがそれらがきっかけで大学を辞め、その少し後に働き出しました。フリーター期間は仕事ができなかったり、労働条件なんかによって3つほど仕事を変えたりして今のアルバイト先に落ち着きました。アルバイトこそちょくちょく変わっていましたが自殺後の生活は単調で、そこそこ楽しくて、色々な人との出会いがあったりしました。それらについてもいつかブログに書いていこうと思います。

 

 

写真を消したせいなのか、自殺未遂の影響なのかここ最近昔のことを思い出せなくなりました。まるでそこで人生が一周して終わってしまったみたいです。芦野も少し変わりました。あまり深く物事を考えずに淡々と生活をして、当たり前に遅刻をしなくなりました。昔は朝起きれなくて低血圧で病んでいるなんて感じの学生でしたが最近は朝から元気に活動し、24時くらいには眠りにつきます。時々深夜に目覚めても大体この生活に戻ります。あの時に何かが死んでしまった感じもします。社会の中で以前よりうまく生活できているのにあの絶望の日々に戻りたくて仕方がない。私は度胸がないのに

 

 

そんなこともあり芦野の23年間について紹介しようとするとなんとなく曖昧で抽象的な感じになってしまいます。

幼い頃はすでに神話です。

公園で茂みへ光が降り注いでいる記憶、暗いリビングと両親の喧嘩、ファミコンのカセット、大きな遊園地への小旅行、殴られた後に慌てて抱きしめられた時の温もり、

人より大抵ワンテンポ遅れて行動する鈍さがあったので保育園では面倒見がいい女の子にいつも手を引かれてどうにかやっていたような記憶があります。この頃に関して辛かった、楽しかったというような感情の記憶はもうほとんど無くてHASYMOのThe City of light みたいな淡々としたイメージだけが記憶に残っています。

正直人生のBGMずっとこれな感じもします

 

光がやんわり差していて曇り空、人にやんわり嫌われる。やんわり集団からハブられる。面倒見がいい子に手を引かれる。保育園から中学校くらいまでその繰り返しだったような気がします。なんやかんや今もその延長線のような気がします。

 

今でこそあまり本を読みませんが、進学し中学生になった私は生活のほとんどを読書に費やしていました。頭の半分に自分の人生とは別のストーリーが常に展開しているようなイメージがありました。ずっとこんな感じでフワフワしていたので高校も大学もあまりいい所へ行けませんでした。

わたしとは裏腹に面倒見がいい女の子1号、2号、3号は皆別の賢い高校へ行きました。

高校生活の中でも当然現れるものだと思っていた面倒見のいい女の子4号は今までのようにそう都合よくは現れませんでした。

今までの人生でわたしの理解者であり、面倒を焼くのが好きな女の子がたまたま側にいたのが運が良かったのか、その幸運に慣れすぎたのか、それともただ高校が合っていなかったのかは分かりませんが、高校生から大学生にかけて以前よりも強い孤独感と他者に受け入れて欲しい気持ちが常に根底にありしんどかった記憶があります。ただこの期間は人間関係でこそ苦労した記憶がありますが自分の中で一つの転換期でもありました。

 

絵を本格的に描くようになりました。以前も絵を描いていましたがこの時期に明確に作品として残すようになりました。下手くそな絵でしたがいくつかはまともな形で残したりもしました。あの時にちゃんと形にしてよかったです。今は当時の苦しみもどこか他人事で、その時の気持ちに共感できることが少なくなってきました。そもそも何がどう苦しかったのかもよく思い出せません。ですがそれらの作品を見ると当時の苦しみに少しだけ繋がっているような気がします。

高校生の時の苦しみ、大学生の頃の苦しみ、生まれてきてから今までのその刹那に抱えてきた苦しみたちはだんだん思い出せなくなって日々の中でどんどんと抽象度が上がっているような気がします。

 

このあいまいな苦しみが、どこかであなたの苦しみにつながればいいですね。私の孤独の集積がどこかであなたへ寄り添えばいい。

苦しみと博愛。全てのものを愛おしく感じるような気持ちと私のかさぶたの下にある痛みがなぜか近しいものに感じます。

だからなのかこれらの体験によって私の美意識の根底に痛みが、苦しみがあります。

多分この感覚とか雰囲気が私の人生の本筋な気がします。多分こんな感じです、ハイ。

 

 

 

最近は頭と体が神話から完全に引き剥がされてしまいました。そこに今の私の生活があり、最悪なフリーターの1日があります。正直今まで考えてきたこと、当時の博愛の精神などは毎日の思考の片隅においやられていて、もうほとんど存在していないような気がします。大体考えていることと言えばもっと単純で、日常といえば朝ギリギリに目が覚めて危険運転をしている人間にぼやきながら職場へ向かい定時に帰り、自主制作もせず、せいぜいちょっと頑張ってデッサンとTwitterをするくらいです。

やさしくて繊細で傷つきやすいシンジくんは労働の中で完全に死んでしまいました。

繊細で傷つきやすくてバイト先の人から舐められる自分は役に立たないので世界をぼかして傷つかないように生きています。

 

捨ててしまった弱さが今もどこかで戯れています。あれは弱さでなくやわさじゃないかなと思いました。弱さは物質や物ではなく、もっと構造的なもののような、構造に潜んでいるような感じがします。何かを捨てたのに、本質的に弱い自分のままなような気がします。

何かをボカして見ないようにしているだけで本当にそれらを直視する必要が出てきた際にきっと殺されてしまうような気がする。